<Kのつぶやき>あれから14年

昨日は3月11日。今年は例年以上に“東日本大震災 追悼”のニュースが目に留まったように感じます。あの日、そしてそれ以降の出来事は、今も深く記憶に刻まれています。

発生時刻、私は人形町の喫煙所で、業務契約をしていた外部スタッフと共にタバコを吸っていました。目の前には、自動販売機に商品を補充するための背の低いトラックが停まっていました。年度末の忙しい時期でもありましたが、そのトラックが突然ポッピングし始めました。隣のスタッフに「トラックが上下に跳ねているように見えるんですが、疲れているんでしょうか?」と尋ねると、「地震ですよ!大きいですよ!!!」という返事。そこでようやく状況を理解しました。

あっという間に揺れが激しくなり、立っているのも困難になったため、その場でしゃがみ込みました。揺れが少し収まったタイミングで、近くの大きな駐車場へ避難。その駐車場から事務所の入り口が見える場所を確保したうえで、私は一人で事務所へ向かいました。

事務所には、1名のスタッフが外出中でしたが、在籍中のスタッフは慌てながら散乱した資料を整理していました。コピー機は移動し、キャビネットの扉は全開、デスク上のものも散乱している状態。永遠に続くかのような余震の中、ある程度整理をした後、貴重品を確認し、事務所の鍵を閉め、外部スタッフの待つ駐車場へ戻りました。その後、外出していたスタッフが事務所に戻るのを確認し、大声で名前を呼んで合流しました。

余震が続く中、街の電柱は傾き、場所によっては地面から水が噴き出していました。「これはただ事ではない」と実感しました。余震の間隔が少し長くなり、揺れの規模が小さくなったタイミングで、スタッフ全員で事務所へ戻り、ラジオに耳を傾けながら今後の対応を話し合いました。携帯はつながらないものの、PCメールは生きていたため、連絡手段として活用するようスタッフに指示。愛知県にいた上司に「全員無事です」とメールを送ると、なぜか携帯が鳴り、直接状況を伝えることができました。今でも不思議に思います。

電車はすべて止まり、街には屋内に入れない人々があふれていました。夜になり、全員で開店していた韓国料理店で食事を済ませました。事務所に戻ると、地下鉄のみ運転再開のニュースが入りました。私は、備蓄していたクッキーやカロリーメイト、ミネラルウォーターを各人に配り、自宅に戻れない場合も滞在先に到着した時点で私宛にメールを送るよう指示しました。

その後、地下鉄で移動できるところまで行き、徒歩や家族の迎えで、それぞれが就寝できる場所へと帰りました。

震災発生日が金曜日だったため、翌日以降の週末で状況を見極めながら、週明けの業務について連絡を取ったことも覚えています。

長く続いた余震の影響で、私は三半規管をやられ、しばらく常に軽い吐き気を感じていました。それでも、周囲に大きな被害を受けた人がいなかったことに安堵しました。

震災から100日目、私は宮城県を訪れ、避難所の方々と話をしました。震源地近くの被害の大きさは想像を絶するもので、まるで映画のセットの中にいるような光景。しかし、それ以上に衝撃的だったのは現地の“匂い”でした。テレビでは伝わらない、現実の凄まじさを目の当たりにしました。

それでも、話をした人々の前向きな姿勢や、「訪れてくれてありがとう」と感謝されることに驚かされました。日本人の根底にある“何か”を感じた瞬間でした。

あれから14年。今年に入り、“山火事”のニュースをこれほど頻繁に聞く年もありません。大きな災害はいつどこで起こるかわからない。今の私たちにできることは何か?

今こそ、それを考えるべき時期に来ているのではないかと思います。

 

this blog written by T.Kanemaki
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