<Kのつぶやき>尾州毛織物の歴史と産地について -Vol.2 発展と衰退を繰り返す毛織物-

2024年11月6日(水)~7日(木)、東京国際フォーラムで開催された「JFW JAPAN CREATION2025」内にて「Bishu Style 2025」が実施されました。今年の「Bishu Style」は、装いを一新し、「Brand New Bishu Style」として尾州産地と毛織物の認知度向上を目的に、パブリックスペースを展開しました。

ブースでは「尾州毛織物の歴史と産地について」や「毛織物ができるまで」の映像を放映し、さらに毛織物ができるまでの工程を一部現物展示で解説しました。「Premium Textile Japan」と「JFW JAPAN CREATION」は日本最大規模のテキスタイルイベントであり、多くの来場者が各ブースを回り商談や挨拶を行います。そのため、来場者が長時間立ち止まって映像を見るのは難しいと考え、映像の中で「テキストデータをJWWA NETにて展開中!」とのテロップを表示しました。

今回は会場で放映した「尾州毛織物の歴史と産地について」の文字データを、3回に分けて我が国における国産毛織物製造の歴史から尾州産地の成り立ちをお伝えいたします。

今回は“発展と衰退を繰り返す毛織物”編です!

【発展と衰退を繰り返す毛織物 ~Woolen textiles undergo repeated development and decline~】


明治12年(1879年)から本格的な製造が始まった国産毛織物は第一次世界大戦<大正3年(1914年)~大正7年(1918年)>を境に大幅に製造量を飛躍させていった。

 


 

これは、大戦への参戦から海外製毛織物の輸入が困難になった上に、ロシアからの大規模発注を加え、国内需要が増加していったことに起因している。特に軍需の“羅紗”、民需の“モスリン”の需要が著しい伸びを示した。またこの戦中から尾州産地で主流だった二幅(約72cm)織機から生産性向上を求めた四幅(約144cm)織機の製造が始まり服装の洋装化もあり、四幅織機へと移行されていった。

二幅織機
~“Kyang Yhe Delicate Machine Co., Ltd.”HPより引用

四幅織機
~“文化遺産オンライン”HPより引用

 

時は昭和時代に突入し、昭和12年(1937年)に日中戦争、日独伊防共協定締結を経て昭和13年(1938年)に国家総動員法が発令され、世の中は戦局拡大のムードが漂っていった。
前述の第一次世界大戦での環境下に置かれること(生産統制、価格統制、配給統制、消費統制等)を危惧し、当時の羊毛紡績特約店に加えて製織業者、紡績企業が集結し、自主的な統制組織“日本毛織物統制協会”、“日本毛織物元売商業組合”設立への道を歩んでいった。

 


 

“日本毛織物元売商業組合”は特に戦前・戦中・戦後の一時期、わが国の毛織物流通の担い手になった。後の昭和15年(1940年)に団体名称を“日本毛織物元売卸商業組合”と改名された。<後に配給事業を“日本毛織物中央配給統制会社”に継承し、昭和17年(1942年)に解散した。>さらに日本国内は、昭和16年(1941年)12月、日本はアメリカ、イギリスに宣戦を布告し、ハワイ湾奇襲を機に太平洋戦争<昭和16年(1941年)~昭和20年(1945年)/※太平洋戦争とは第二次世界大戦の局面の1つとしての名称、なお日本側の呼び名は“大東亜戦争”と呼ばれる。>に突入した。

 


 

戦時中にあった様々な統制が戦後、徐々に解かれていき羊毛産業界では、昭和22年3月に「日本羊毛協会」が設立、同年5月には「日本毛織物工業協同組合連合会」が結成された。羊毛協会は翌年の昭和23年(1948年)4月に解散され「日本羊毛工業連合会」が誕生する等、戦後の混乱期を象徴するかのごとくの動きを見せた。

 


 

昭和25年(1950年)5月、統制撤廃後、毛織業界では造れば飛ぶように売れる時代がしばらく続いた。(俗に“ガチャ万”と呼ばれた時代。※この“ガチャ万”1回織機をガチャと動かせば1万円と言われたことから生まれた言葉)


 

それは国民のファッションニーズの高揚を反映したもので、特にトラッドファッションの流行からフラノ素材が人気となり、需要過多になったと言われているが、この状況も1年間くらいで落ち着く状況になっていった。<この頃から、海外販路開拓への繊維産業業界の動きも始まっていく。

 


 

毛織物の輸出のピークは昭和43年(1968年)と言われ生産量の約16%が輸出(主要輸出先:アメリカ)だったと言われている。 常に社会状況と共に変動する繊維製品製造を行政と共に安定化するために昭和29年(1954年)に「日本毛織物等工業組合連合会」、昭和35年(1960年)に「日本毛織物元売卸商業組合」が発足

 


 

昭和36年(1961年)には、この両団体が組合協約書を締結し、それぞれの所属組合員の行う内地向けの毛織物取引の正常化をはかった他、調整規程の実施検討、統一伝票の実施など全国的な毛織業界の商ルール正常化、合理化に取り組んでいった。

 


 

しかし、昭和44年(1969年)に来日したアメリカ商務省長官から“対米輸出自主規制”を申し入れられ、昭和46年(1971年)には“日米繊維協定”が締結され毛織物輸出は後退を余儀なくされていった。
日米貿易摩擦で競争力を失った産業
~“AP_アフロ”HPより引用
輸出比率は摩擦のたびに大きく下がった_日清紡の売上高に占める輸出比率の推移
~“日経BP”HPより引用

 

一方で、国内では戦後に一気に西洋化が加速し、昭和30年代(1955年代)には高度経済成長と共に国民所得の向上につれ、国民のファッションに対するニーズは高まり、衣料消費は極めて旺盛になっていった。こうなってくると、これまでの仕立て服(注文服、オーダーメイド)では消費を満たすことはできなくなり、既製服の消費が大きく増えていったことにより、毛織物も量が求められていくようになった。


 

後に、昭和48年(1973年)のオイルショック<マイナス要因>、昭和55年(1980年)以降のDC(デザイナー・キャラクター)ブーム<プラス要因>、昭和60年(1985年)のプラザ合意<マイナス要因>、昭和61年(1986年)から平成3年(1991年)が代表的な年代であるバブル景気<プラス要因>、平成3年(1991年)バブル崩壊<マイナス要因>等など、紆余曲折を繰り返し、現在でも日本国内毛織物生産の約7割を占める一大毛織物産地として“尾州産地”は国内外に毛織物を供給している

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・日本の毛織物130年の軌跡(発行元:尾州地域新世紀産業振興事業委員会)
・毛織のメッカ尾州~尾西毛織工業90年のあゆみ~(発行元:尾西毛織工業協同組合)
・引用表記のない画像元:Pexels
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this blog written by T.Kanemaki
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