<Kのつぶやき>意見と事実の識別

 昨今では、ネットの発達により個々人が気軽に情報を発信することができる時代だ。また、コロナ禍になって以来、新型コロナウィルスの情報や、昨年の米国大統領選挙、今年に入ってからのアフガン情勢等、TVやネットでも多くの情報が飛び交っているが、国内メディアの情報のみならず、飛び交う海外メディアの情報も手軽に受け取ることができる。ワクチン問題にも代表されるようにコロナ禍になり自身の判断とその判断スピードが大きな行動の要因になってきていることも確か。今日の情報が明日にももう古い情報になっていることを多々、肌で感じることすらある。

 そのような環境の中で、企業・組織または個人が発信する情報を受信していると「どの情報が事実なのか?」そして、「どの部分が発信者の意見なのか?」と思う時がある。時として、“発信者の意見”が氾濫し、それが数の多さでマジョリティとなり“あたかも事実”のように二次発信者が語るようにもなっていることにも気づく時がある。社会的なことであれば“法と証拠”に根拠を求めているのか否かを観察する時もあるが、経済的なことや嗜好的なことであれば、“時流を読む”ということでは、「発信者の意見」がどれだけ、自身の思考とマッチングする内容なのかを想像する。一番質が悪いのは、今、ネット界隈で囁かれる「偏向」というワードだ。数の暴力を活かし、“あたかも事実”のような“発信者の意見”が発信されているという事実がある。(時に後日、訂正があるケースもあるが、後日ではもうその訂正に触れない場合もあるので、意図的なモノであるようにも感じてしまう。)このような場合、“あたかも事実”のような情報を深堀して見聞きしていると、「根拠の甘さ」を察することができるか否かで、その情報が信頼に値するか否かを判断するようにはしている。ただ、これも巧妙な話術や根拠なきデータの提示、大多数が賛同!のような社会ムードが存在するとその判断が難しい。実際にコロナ禍で後者のような“あたかも事実”が増えているようにも感じる。また、年齢を重ねることで一旦、認識しインプットした事象をひっくり返して、再認識~再インプットすることはなかなかハードルが高い。身体は置いておいて、せめて思考だけは柔軟な状況をキープしたいと願うばかりだ。

 そんな観点で見ると、昨今の「サステイナブル」は、私的には社会的、経済的、嗜好的・・・と多くの分野に跨ったこの取組みは、何が正解で、何をすればクリアできるものなのか・・・と一旦、思考回路が止まる。まさに受け取り側の考え方ひとつで、幾通りも正解があると思うからだ。前述のことを思うと、実証できることは数字やデータで示し、メンタル的な部分は個々人の意見を重視しと、バランスよくミックスし自分が思うこと、実行できることからスタートさせ、自分なりの正解を導き出す・・・という俗にいう「走りながら考える」事例なのではないかな?と感じている。

 ともあれ、社会生活全般において、「意見と事実」を自分の五感を澄ませて、識別し、言動・行動することが求まられる時代の真っ只中にいるのであろう。

 

this blog written by T.Kanemaki
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