<Kのつぶやき> グローバル<インターナショナル

まもなく終わりを向かえる契機となった2020年。
いろいろなことがあったが、具体的に問われると大枠ではその種類は少ない。
人の記憶とは五感が、絡み合いその深さを形成するのだと気づいた年だったようにも思う。視覚、聴覚で薄いインプットとなった2020年の出来事は後になって、その意味を考えさせされるものになるのであろう。

昨今では “分断化”というワードを良く、見聞きするようになった。某国のみならず、自分の周りでもそれは起きている。そもそもが、人は人生において様々な選択をし、現在に至っているのだから、それが大きなものなのか小さなものなのかの違いでしかないと私は思う。“好きなのか嫌いなのか”、“合うのか合わないのか”それだけであって、“黒だの白だの”、“赤だの青だの”、“善だの悪だの”は個人の感覚の次に来るものであって、先に来るものではないとも思う。ただ違和感を持つは、その選択を迫られる事象と対峙するスピードの早さだ。光陰矢の如し、やってくる事象が多く、さらに瞬時の判断が求められているように感じる。同時に、有事の時こそ、人の本性が露出されることを実感する。例え分断された環境が形成されても、その境界線はあいまいで、早いタイミングであれば、別のパラレルワールドへの道は開かれているということだ。

この境界線という言葉を別の角度から見れば、“国境”というワードが私には連想される。新型コロナウィルス感染症の蔓延によってこの“国境”というワードも今年、よく見聞きし民族というワードも同じタイミングで私の中に入ってくるようになった。嘗て、イタリアでの仕事において、イタリアサイドの主催者とのミーティングで意見をぶつけた際に“ジャッピタリー(ジャポーネ&イタリー)になれるように”と言われたことがあった。“両国の深層心理にある民族性を融合させていきましょう!”とその時の私は捉えた。このように日本のような島国以外では、通常のビジネスにおいてもこのような会話が成されることを知るきっかけにもなった。このことを深堀すると、グローバルという“国境なき”ではなく、“国境を意識した上での”インターナショナルな発想の方が、互いの良き面を尊重し合えるのではないか?と感じる。実際に今、規制緩和が進んではいるが、国外への移動には規制が全くないわけではなく、海外へ行くにはそれ相応の覚悟が求められる現実を考えると、「グローバル<インターナショナル」な発想は共通認識ではないために、超えるべき時間とコミュニケーション力が必要になるが、良識ある人であれば、より深い関係を築くことに繋がるようにも思える。好奇心を触発する商材を扱う繊維・ファッション業界であればなおのこと、自分の中にないものに対して、好奇心、向上心を満たすために我々の話に耳を傾ける時期が来ているとも感じているからだ。

「人がそう言ってるから。」、「皆、そうしてる。」そんなことにどのような価値を見出せるのか? 嘗てはこの思考で、“流行”なるものが形成されたのは間違いなのだとは思うが、2000年に入ることからは、“人との相違”に意識を向ける傾向にあったように思う。一方で、大きなテーマではまだまだこのような考え方は根付いているようにも感じる。大きなこと考えることを回避するためなのかはわからないが、自分が“大きなテーマ”と考えなければ、もっと身近なことなのだともう気づいて良いではないだろうか。

自分らしさの先に、民族性が顔をのぞかせるのではあれば、自分らしさを、胸を張って言える人間でありたいと願うばかりだ。

このように思うようになった2020年が終わる。

2021年は意識の変化が起きたモノ作り企業が、どのようなアクションを見せ始めるのか、私の好奇心は尽きない。

this blog written by T.Kanemaki